「犠牲になる前に、成長せよ」──チームに本当に貢献する人の条件とは

「チームのために犠牲になる」は本当に美徳か?
──自己犠牲と成長の本質を問い直す
「チームのために」「誰かのために」──この言葉には、どこか美しく、尊い響きがある。 スポーツの現場でも、職場でも、教育の場でも、こうした言葉は頻繁に使われる。 そして、それを口にする人は「利他的」「献身的」として称賛されることが多い。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみたい。 本当にそれが、チームのためになっているのか?
自己犠牲という“美徳”の落とし穴
「チームのためになるなら、自分は犠牲になってもいい」 この考え方は、一見すると誠実で責任感が強いように見える。 しかしその裏には、「自分の成長を後回しにする」という危うさが潜んでいる。
自己犠牲を美徳とする文化は、日本社会に根深く存在している。 「空気を読む」「和を乱さない」「自分を抑える」──これらは一見すると協調性の表れだが、時に“思考停止”を生む。
心理学的には、自己犠牲的行動はバーンアウト(燃え尽き症候群)や自己効力感の低下に繋がるリスクがある。 カナダの心理学者ポール・ヒューイットの研究では、過度な自己犠牲傾向を持つ人ほど、うつ症状や自己否定感が強くなる傾向があるとされている。
つまり、「誰かのために」と言いながら、自分を犠牲にし続けることは、自分自身を蝕む行為にもなり得るのだ。
成長こそが最大の貢献
チームにとって最も価値があるのは、「結果を出せる人が増えること」だ。 そのためには、まず自分が変わること。 自分が強くなること。 自分が自分を信じて、挑戦し続けること。
脳科学の観点からも、成長はチームに波及する。 人間の脳は「ミラーニューロン」と呼ばれる神経細胞によって、他者の行動や感情を“模倣”する性質を持っている。 つまり、誰かが挑戦している姿を見るだけで、周囲の脳も活性化するのだ。
自分が成長する姿を見せることは、周囲に勇気を与え、挑戦の連鎖を生む。 それこそが、最も持続可能で本質的なチーム貢献だといえる。
「犠牲になること」を先に考えるのは逃げかもしれない
「自分が犠牲になれば、チームがうまくいく」 この考え方は、一見すると利他的だが、実は“逃げ”である可能性がある。
なぜなら、成長には痛みが伴う。 挑戦には失敗がつきものだ。 結果を出すには、努力と継続が必要だ。
それらを避けて「犠牲になる」という選択をすることで、 自分の課題から目をそらしてしまうことがある。
「自分がもっと上手くなる」「もっと結果を出す」 この道を選ぶことの方が、よほど勇気がいる。 だからこそ、犠牲よりも成長を選ぶ人こそ、真にチームを支える存在なのだ。
自己犠牲と“貢献”を混同しない
自己犠牲は、時に美しく見える。 でもそれが「本質的な貢献」ではないなら、 ただの自己満足になってしまうこともある。
哲学者アラン・ド・ボトンはこう語っている。
本当にチームのためを思うなら、 まずは自分が強くなること。 その姿が、周囲に勇気を与え、 結果としてチーム全体の力になる。
貢献とは、自分を高めること
私自身、サッカーという競技の中で「チームのために」という言葉を何度も聞いてきた。 そしてそのたびに、自分を抑えて誰かのために動くことが“正解”だと思い込んでいた時期もある。
でも、ある時気づいた。 自分が本気で成長しようとする姿勢こそが、チームに最も力を与えるということに。
誰かのために動くことは素晴らしい。 でもそれは、自分が自分を活かしてこそ意味がある。 自分を犠牲にしてしまえば、長期的には誰も救えない。
だからこそ、私はこう問いかけたい。
「チームのために」と言う前に、 「自分は今、どれだけ成長できているか?」 「自分の結果は、チームにどう影響しているか?」
犠牲になることが目的ではない。 自分が輝くことが、チームを輝かせる。 それが、真の貢献だ。
最後までお読み頂きありがとうございました。
コラム著者