頭を黙らせ心を軸に──競技者の「善」から始まる一歩

競技に打ち込む者であれば、誰しも「勝ちたい」「認められたい」「実力を証明したい」といった願望を持ちます。 それ自体はとても自然なことで、むしろ努力の源泉でもあります。 しかし、時としてその思考が前のめりになりすぎると、プレーの本質や自分らしさがどこか遠くへ行ってしまったような感覚に襲われることがあります。
今回は、心に生まれつき備わっている「性善」という概念を起点に、競技者がどうメンタルの軸を整えていくべきかを考察してみましょう。
善は「頭」ではなく「心」から湧き上がる
人の心には善と悪が同居していて、そのどちらも行動の起点になり得ます。 では「性善」とは何か――それは理性で「こうあるべきだ」と構成されるものではなく、 やむにやまれず誰かに尽くしたくなる衝動、つまり内側から湧き上がる純粋な心の動きです。
それは損得勘定に左右されない無垢な意思であり、 自分自身の納得のために動く力。 そして本来、そういった善なる衝動は、競技という極限の場にこそ、あらわれやすいのです。
思考が善を遮るとき
競技では戦略的思考が欠かせません。 しかし、「得をしたい」「目立ちたい」「損をしたくない」という欲望が思考の中心になってしまうと、 心の善意が歪められ、善が“偽善”にすり替わる危うさが生じます。
例えば、ある選手が仲間に手を差し伸べるとき、そこに名声や賞賛を得るための思惑が混ざっていたら、 その行為の純度は半減してしまいます。
思考とは計算の道具であり、心を支える補助線であるべき。 頭を使うこと自体は必要だけれど、それが心をすり減らすほど過剰になると、本来の自分を見失ってしまう。
競技者にとっての「心の納得」とは
勝利の快感。評価されることの喜び。 それらは当然嬉しいものですが、真に満たされるのは、「自分の心が納得しているかどうか」です。
誰かの目にどう映るかよりも、 「このプレー、この選択は、今の自分にとって誠実だったか?」という問い。 それに対して「はい」と答えられるなら、それが競技者として最も美しい勝利なのです。
この「納得」の感覚には即効性はありません。 むしろ、静かに後からじわじわと満ちてくる――そんな種類の満足です。 競技の勝敗とは別軸で存在する、自分の“在り方”に対する信頼です。
実際にどう活かせばいいのか?
競技の現場でこれを活かすためのポイントは、次の3つです。
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欲望を否定しない、でも基準にしない
名声や利益は自然に湧く感情。 それを否定する必要はありませんが、行動の軸に置かないことが大切です。
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迷ったら「自分は納得できるか?」と問う
判断が分かれる場面で、「損得」ではなく「誠実だったか?」と自問する。 心の納得を基準にすることで、後悔のない選択がしやすくなります。
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頭は「心を助ける道具」として使う
技術向上や戦略、反省など、思考はもちろん大切。 でもそれは心の納得を支える手段であって、目的ではないという意識を持つこと。
最後に――「納得の瞬間」を積み重ねていく競技者へ
競技とは、善意が試される場所でもある。 「やむにやまれず動きたくなる気持ち」こそが、選手の本質的な強さであり、 名声や評価を求める前に、まず自分の心に問いかけることができる人は、 どんな場面でも、ブレずに立っていられる。
名声に背を向けても、 その一瞬に誠実でいられるなら、 結果とは別の勝利が、心の中に刻まれる。
頭はその勝利を記録し、 心はその勝利を記憶する。
そしてその記憶は、 静かな確信となり、 次の瞬間に迷いなく踏み出す強さとなる。
「心が納得できる一歩」――それを積み重ねていくことこそが、競技者としての最も誇らしい軌跡となる。
あなたが最近、心から納得できた瞬間はいつだっただろう? その問いが、次の一歩の軸になるかもしれません。
コラム著者