覚悟の磨き方──選び続けるための心の習慣

自分の田んぼに立ち続ける覚悟 ──「やりきる」ことの意味と自分との関係性
やりきること。 それは、単に努力量や結果を指す言葉ではない。
むしろ、「成果に左右されず、自分との関係を途切れさせない」という選び方の話だと思っている。
競技の世界でも、人生の営みでも、始めることはできる。 道具を揃え、計画を立て、スタートラインに立つ。 でも、やりきるとは、その先にある一つの静かな決断だ。 うまくいかない日があっても、手応えがなくても、 それでも、自分の手で土に触れ続ける──そんな在り方。
私は、それを“田んぼに立ち続ける技術”と呼んでいる。
派手さはないけれど、鍬を置かないという習慣のなかに、確かな覚悟は宿る。
自分の畑を放置して、他人の田んぼを見に行きたくなる時
不思議なもので、“いよいよここから”というタイミングで、 人はよく、自分の田んぼから目を逸らしたくなる。
「このやり方で合っているのか?」 「うまくいかないのは、土の質のせいじゃないか?」 そんな不安がよぎると、途端に“誰かの田んぼ”の様子が気になりだす。
誰かの草取りは、どうしてあんなに整って見えるのか。 誰かの育て方は、理論的に見えて安心感がある。 そのうち、自分の鍬は止まり、汗をかくことから遠ざかってしまう。
まだ“人の雑草を取る”なら、行動は伴っている。 でも本当に多いのは、黙々と草を抜いている人を眺めながら、 「もっとこうした方が効率的なのに」 「それ、根まで取れてないよね」 などと、批評だけで終わるような動きだ。
それは、「やりきる覚悟」をまだ持ち切れていない、自分自身の揺れの表れでもある。
土の手触りを知っている人だけが語れること
批評や分析は、必ずしも悪いものではない。 でも、それが誰かの手を動かすものになるためには、 “自分で土を掘った人”の実感に裏打ちされている必要がある。
土に触れれば、手は汚れる。 根の深さに驚く日もあるし、思うように進まない時間もある。 それでも、自分の感覚を確かめながら、試行錯誤を続けることで、やっと“手ざわり”が生まれる。
やりきった人の言葉には、摩耗の質感がある。 その言葉には、語られない余白もある。 だからこそ、誰かを支える力になる。
知識や結果よりも、 “やり方”ではなく“やりきった時間”が、その言葉を重くする。
メンタルとは「覚悟を育てる環境」である
私はスポーツメンタルコーチという立場で、 選手にも、自分自身にも、静かに問いかけるようにしている。
今、自分はちゃんと土に触れているか? 傍観者になっていないか?
覚悟は、自然に育つものではない。 環境、関係、余白──それらに丁寧に耕される中で、ようやく育まれる。
応援や励ましも、確かに力になる。 でも、それだけでは足りない。
誰にも見られない時間の中で、 自分の手で鍬を入れるという習慣。 その小さな積み重ねこそが、“自分との関係性”を支えてくれる。
それは、競技のためだけではない。 自分という存在と、静かに向き合う技術でもある。
最後のメッセージ──覚悟とは、行動の中で整え続けるもの
覚悟は、大きな決意ではなく、静かな持続である。
鍬を置かず、揺れながらも土に触れ続ける日々。 他人を気にしながらも、自分の畑に戻ってきた回数。 その選び直しの積み重ねこそが、覚悟の輪郭を整えていく。
今日も少しだけ、足元の土に触れてみよう。 もし他人の畑が気になったなら、それはきっと、 “今こそ自分の畑に立ち直るタイミング”なのかもしれない。