暇そうに見える人で在りたい

スポーツメンタルコーチとしての、ちょっと変わった価値観
「忙しそうに見えること」が評価される世界で
たいていの人は、忙しく見られたいのかもしれない。 予定が詰まっていることが、信頼や人気の証のように思われることもある。 「充実してるね」「売れてるね」なんて言われて、嬉しくなる人も少なくないのかもしれない。
でも、私はそういう言葉にあまり喜びを感じない。 むしろ、少し距離を感じる。 「忙しそうに見える」ということは、誰かが「話しかけづらい」と感じているということかもしれないから。
暇そうに見える人で在りたい理由
私は、暇そうに見える人で在りたい。 それは、スポーツメンタルコーチとしての自分の在り方だと思っている。
暇そうに見える人は、誰かの「今」に応えられる人。 「話したい」と思ったときに、すぐに連絡できる人。 「相談したい」と感じたときに、迷わず声をかけられる人。
そんなふうに見えることは、信頼のかたちだと思っている。 それは、誰かのタイミングに合わせられるということ。 それは、誰かのペースを尊重できるということ。
忙しそうな人に、心を預けられるか?
メンタルコーチという仕事は、心の揺れや迷いに寄り添う役割を持っている。 だからこそ、余裕があるように見えることが大切だと思う。
せかせかしている人に、心のことを相談したいとは思えない。 忙しそうな人に、自分の揺れを預けたいとは思えない。 「今は迷惑かもしれない」「タイミングを間違えたかもしれない」 そんなふうに思わせてしまうなら、それはとてももったいないことだ。
私は、そう思う。 だから、暇そうに見える人で在りたい。
「時間をつくれる人」が持つ余白
暇そうに見える人って、実は「時間をつくれる人」だと思う。 どんな状態でも、自分のために時間をつくれる人。 人のために時間をつくれる人。 そういう人は、自然と余裕があるように見える。
そして、その余裕が、誰かの安心につながる。 「この人なら、話しても大丈夫そうだな」 「この人なら、受け止めてくれそうだな」 そんなふうに思ってもらえるなら、それだけで十分だ。
忙しさを誇りにしないという選択
私は、忙しさを誇りにしたくない。 予定の詰まり具合で、自分の価値を測りたくない。 むしろ、どれだけ余白を持てるか。 どれだけ誰かの「今」に応えられるか。 そこに、自分の仕事の本質があると思っている。
「暇そうに見える」ということは、 誰かの「話したい」に、すぐに応えられる人であるということ。 誰かの「迷い」に、静かに寄り添える人であるということ。
そう見えることが、信頼の設計になる
- 毎日コラムを更新できるくらい暇な人。
- いつ連絡してもすぐに返事が返ってくる暇な人。
- 希望通りの日時でメンタルコーチングができる暇な人。
そんなふうに見えることは、むしろ誇らしい。 それは、誰かの「今」に応えられる準備ができているということだから。
暇そうに見える人は、 「いつでも話せる人」 「いつでも頼れる人」 「いつでも受け止めてくれる人」 そんな印象を与えることができる。
それは、スポーツメンタルコーチとしての信頼の設計でもある。
自分のために、人のために、時間をつくる
私は、どんな状態でも、 自分のために時間をつくれる人でありたい。 人のために時間をつくれる人でありたい。
その姿勢が、暇そうに見える理由になるなら、 それは私にとって、誇らしいことだ。
暇そうに見える人で在りたい。 それが、私の選んだスタンスであり、信頼のかたちです。
終わりに:ちょっと変わった価値観かもしれないけれど
この価値観は、ちょっと変わっているかもしれない。 でも、私はこの在り方を大切にしている。 それが、スポーツメンタルコーチとしての自分の軸だから。
忙しそうに見えることよりも、 暇そうに見えることのほうが、ずっと大切だと思っている。
それは、誰かの「今」に寄り添える準備ができているということ。 それは、誰かの「話したい」に、すぐに応えられる余白を持っているということ。
暇そうに見える人で在りたい。 それが、私の在り方です。
話したいと思ったそのときに
「いつでも話せる人」として、 あなたのタイミングに応えられるように、 体験コーチングという時間を、静かに開いています。話したいと思ったそのときに、 体験コーチングという静かな場で、お待ちしています。
コラム著者