「また会いたい人」になるために──信頼は誠と空気感から生まれる

人の「信頼」は、自分を超えたものから生まれる
人は誰かの役に立ちたいと思う生き物です。 けれどその行為が「好かれよう」とする欲から来ているなら、それは自己満足にとどまります。
実際、私も「選手に信頼されたい」「読者に響く文章を書きたい」「また相談したいと思われたい」と思う瞬間があります。 そのどれもが“良いこと”のように見えて、実は「評価されたい」という自分本位な動機が入り込んでいることに気づきます。
だからこそ私は、「尽くす」という言葉に価値を置いています。 それは見返りを期待しないこと。自分の名声や評価を高めようとしないこと。 ただ、その人のために。その場のために。その瞬間の“縁”において、自分を捧げること。
これは、吉田松陰が説いた「至誠にして動かざる者、未だこれ有らざるなり」に通じる姿勢です。 心からの誠を貫き続けることで、人は信頼を得て、周囲を動かしていく。 そんなシンプルで力強い真理が、今も私を支えています。
先回りしない。察しすぎない。ただ傍にいる
スポーツメンタルコーチとして、また人間として、「気が利く人」になる努力をすることは尊いことです。 でもその努力が、相手を操作しようとする技術になってしまう瞬間があります。
「こうすれば喜ばれるだろう」「こう言えば傷つけないだろう」と先回りしすぎると、 相手の本音に触れる機会を失ってしまう。
それよりも、「自分はどう在りたいか」を問い直すことの方が大切です。 その人の言葉を真正面から受け止めること。 その場で誠実に反応すること。
無理に完璧な振る舞いを目指さず、不器用でも、誠実であろうとすること。
信頼とは、察しの良さではなく「誠の厚み」から滲み出るもの。 そしてその厚みは、静かに相手の隣に居続ける時間のなかで育まれていくものだと私は信じています。
毎日の積み重ねが“背中の重み”になる
選手たちは、日々の練習を通して、技術だけでなく「自分との約束の履行」を経験します。
同じように、私自身も「今日、自分を少し整える」「わずかでも誰かの役に立つ」ことを積み重ねることが、 自分の芯を育てることにつながります。
私が毎日のコラム投稿や発信を続けているのも、そうした感覚に近いかもしれません。
反応が少ない日もある。意味が届かないと感じる日もある。 それでも、静かに続けていくことで、言葉や態度が、知らないうちに“背中の存在感”になっていくと思っているからです。
信頼とは「また会いたくなる」感覚のこと
人からの信頼は、論理でも形式でもありません。
「この人にまた会いたいな」と思わせる何か。 そこには、言葉にできない安心感とか、澄んだ空気が漂っています。
私は、ただ“話しやすい”のではなく、“信じられる空気をまとう人”でいたいと思っています。
選手との関係に関わらず全ての人との関係も、すべてはこの“空気感”から始まる。
だからこそ、日々の内省や行動の細部にまで、意志を込めるようにしています。
たとえば立ち姿。たとえば挨拶の声。たとえば、選手に触れる言葉の選び方。
どれも大したことではない。でも、積み重なると確かに“何か”が滲み出てくる。 そしてその“何か”こそが、信頼の源になる。
好かれようとせず、尽くすために
“好かれよう”とすることは、悪ではありません。 ただ、それが目的になった瞬間、人との関係が浅くなる。
相手の心に手を伸ばすには、自分の見返りや評判を脇に置く勇気が必要です。
吉田松陰は「人生の価値は、誠の行いにこそある」と言いました。
私は、スポーツメンタルコーチとしての技術以上に、この「誠の行い」を積み上げる人でありたい。 また会いたいと思ってもらえる人であるために、今日も淡々と尽くします。
たとえ時間がかかっても── それが、“伝えるため”ではなく、“生きるために持ち続けていること”だから。
コラム著者