スポーツメンタルコーチ上杉亮平
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双葉山──69連勝の伝説と心技体を体現した横綱の物語

 

相撲の神様と呼ばれた男

双葉山定次(本名:鶴吉定次/1912–1968)は大分県宇佐郡天津村(現・宇佐市下庄)出身の第35代横綱。

 

幕内最高優勝12回、そして昭和11年春から昭和14年春まで続いた前人未到の69連勝で、今なお「不世出の横綱」「昭和の角聖」と称される伝説的存在。

 

引退後は年寄・時津風を襲名し、日本相撲協会理事長として近代化に尽力するなど、土俵内外で相撲道の支柱となった。

この「69連勝」は、2010年に白鵬の63連勝が迫ったものの更新されず、令和の現在まで破られていない歴史的記録である。

 

幼少期の苦難

双葉山は幼少期に右目を負傷し、失明寸前に至る視力障害を抱えた。

 

少年時代には母の早逝、父の海運事業不振による家計の逼迫が重なり、家族を支えるために船で鉱石などの荷役に従事した。

 

彼自身は後年、この海上生活で「自然に腰を鍛錬できたこと」が土俵での足腰の基礎になったと振り返っている。

 

田舎相撲では大人相手に次々と勝ち、地元紙に「怪童」として掲載され、これが立浪親方の目に留まる端緒となった。

 

四股名「双葉山」は、当時の大分県警本部長である双川喜一の「双」を取り、出身地の地名とも響きを合わせて命名されたと伝わる。

 

右目の障害に加え、右手小指の先の欠損というハンディを背負いながら、彼の「鍛え抜かれた足腰」は、のちの相撲様式を支える核となっていく。

 

角界入りと挫折

1927年(昭和2年)、双葉山は立浪部屋に入門。

 

新弟子時代は目立った成績を残せず、強烈な押し相撲に押されて土俵際でうっちゃりに頼る場面も多く、「うっちゃりの双葉」と揶揄されることさえあった。

 

それでも日々の猛稽古を重ね、1931年には新十両へ昇進。翌1932年には春秋園事件による大量離脱で番付が再編され、2月場所で前頭四枚目に繰り上げ入幕を果たす。

 

ここから、足腰の強さを武器に土俵際での逆転勝ちを重ねて星を伸ばしていく。

 

この過程で、時代の代表横綱・玉錦ら名力士の存在から刺激を受け、実戦で必要な「受けて立つ」感覚を磨いた。

 

勝ち越しと負け越しを行き来しながらも、抜群の粘り腰で幕内の一角に定着し、1935年には小結へ。双葉山の体は次第に充実し、相撲内容も「攻め急がず、機を待つ」型へと洗練されていく。

 

飛躍と連勝街道

転機は1936年1月場所。7日目に強豪・磐ノ浦を破り、そこから歴史的な連勝街道が幕を開ける。

 

1936年5月場所で初の全勝優勝(当時11戦)を遂げて大関へ、翌1937年5月場所でも全勝(当時13戦)で優勝し横綱へ推挙。昭和11年春から昭和14年春4日目まで、都合69連勝を積み上げた。

 

1年2場所制の時代に、約3年にわたって負けなしに近い星取りを続け、入場券に徹夜の行列ができるほどの熱狂を巻き起こした。

 

連勝の背景には、立ち合いの「後の先(ごのせん)」がある。相手より一瞬遅れて立つことで先手を取る独自の間合いは、右目の障害ゆえに正面からの衝突で遅れがちな自身の特性を、戦術的優位へと反転させたものだ。双葉山は自伝『相撲求道録』の中で「受けて立つ」「後手の先」といった心持ちを語り、相手の動きに昂奮せず「機を待つ」修養を強調している。

 

さらに、双葉山の座右の銘として知られる「木鶏(もっけい)」は、『荘子・列子』の故事に由来する。

 

敵を見ても昂ぶらず、木の像のように動じない闘鶏が天下無敵であるという寓話から、双葉山は「未だ木鶏に至らず」と友人へ電報を打つほどに、無心・不動の境地を理想として追求した。連勝が止まった夜に「我いまだ木鶏たりえず」と伝えた逸話は、単なる勝敗を超えた“心の技法”を求道した証として名高い。

 

記録が止まっても伝説は続く

1939年1月場所4日目、安藝ノ海に敗れて連勝は69で途絶える。それでも双葉山の強さは揺るがず、幕内最高優勝は通算12回に達した。

 

取り口は「右四つ・寄り・上手投げ」を得意とし、円熟の中に機を見て鋭く決める相撲へ成熟。戦時下の混乱期にも角界の人気を支え、1945年11月場所を最後に土俵を去った。

 

通算276勝68敗1分け(幕内)、勝率8割台という圧倒的な戦績は、相撲史の金字塔として語り継がれている。

 

「69連勝」は、その後も何度か挑戦者が現れるたびに比較される。2010年、白鵬が63連勝で迫ったが更新ならず。

 

双葉山の連勝は、相撲史における「到達が困難な境界」として、現在も不滅の記録として立ちはだかっている。

 

指導者としての双葉山

引退後は年寄・時津風を襲名し、時津風一門を形成。

 

弟子育成と協会運営の両輪で角界の近代化に尽力した。

 

日本相撲協会理事長としては、部屋別総当たり制の導入や審判部の独立など改革を進め、戦後復興期の相撲の普及に大きく貢献した。

 

現役時代に求め続けた「心気体(心技体)」の実践は、師としての教えにも受け継がれ、技術と精神を両立させる相撲道の骨格を整えた。

 

双葉山の精神修養には、日蓮宗や身延山に通じた宗教的教養も影響したとされ、「木鶏」の境地を実生活の中でも探究した。勝敗に一喜一憂せず、淡々と稽古を積み重ねる姿勢は、弟子や周囲の力士たちに強い影響を与え、時津風一門の基調を形作っていった。

 

最後に:双葉山の遺産

双葉山定次さんの物語は、ハンディを抱えながらも自らの特性を戦術へと反転し、心の修養で極意に迫った“求道者”の軌跡だ。

 

69連勝は「勝ち続けた記録」以上に、「心を整え、昂ぶらず機を待つ」という精神の象徴であり、競技者にとって普遍的なメッセージを持つ。

 

失敗や障害は“弱点”ではなく、磨けば“様式”となる。双葉山定次さんはそれを生涯で証明してみせた。

 

そして今を生きる私たちも、心を整え、自分の特性を力へと変えながら挑戦を続けていこう──その一歩が、未来の伝説をつくるのだから。

 

最後までお読み頂きありがとうございました。

 

コラム著者
プロスポーツメンタルコーチ上杉亮平
全てのアスリートが競技を楽しみ、自分らしさを輝かせる世界を創る。ことを目指し
「メンタルで視点(せかい)が変わる」この言葉胸にアスリートを自己実現へと導くサポートをしています。詳しくはこちら

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